「A-ha!」思わず相づちを打ちました。
イタリアから戻る度に、「なぜ、テレビ等で年齢を表示するの?」また、「日本ではどうして、年配の女性に対しても遠慮もなく年齢を聞くの?」と疑問に感じていたものでした。
イタリア滞在中に、面とむかって「何才ですか?」と聞かれた事も無く、身近に親戚の子ども等の成長も見ないせいか、自分の年齢を忘れてしまうということもしばしばありました。
先日、日本と欧米の考えの根底に全く違うものがあったことにハッとさせられました。
日本は、儒教の国。日本の言語文化では、話す相手の地位の高低、相手の年齢によってどのレベルで話をするか、言葉使いも、扱いも、対応も変化します。その為に相手の年齢を知らないで話をつづけることは、不安を伴います。
イタリアでなくとも、英語で相手に面と向かって「How old are you?」という質問がなれれることはまずありません。
これは、水平的人間関係を建前とする英語文化圏では当然のこと。
イタリアにももちろん丁寧語は存在します。ですが、日本と比べて大きく違うのは、親しくなると、地位の上下に関わらずほとんどがファーストネームで呼び合う水平的人間関係の文化だということです。
仕事の面接でも年齢を尋ねることがまずないほど英語や欧米の文化圏では製造年度に対する繊細さが非常に強く、アメリカでは性別さえ履歴書に記載しません。相手の年齢を尋ねることが人間関係の円滑化に寄与しない世界、それが英語・欧米諸国の文化といえます。
日本に戻ってから、幾度となく年齢を聞かれる度に、デリカシーのなさを嘆いていたことがありましたが、年齢に対するリテラシーの根底に、どういう対応をするのか、敬語をつかうのか、自分より先輩なのか、後輩なのかという上下関係を重視する儒教文化が根付いています。
心理学でいう表層意識と深層意識のように、日本語圏で育つと知らず知らずのうちに日本の蓄積された文化が深層部分にあり、それが言動となって現れます。それは、海外の言葉しかりです。
普段つかっている言葉の表現の根底にあるものが一気に解決できたA-ha体験でした。